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【News】アロハ大使のダニー・カレイキニ氏死去

「アロハアンバサダー(アロハ大使)」として知られ、また「Aloha ke kahi i ke kahi」(「愛はどこにでもある。 愛は見つけるところにある」)という信条でも有名な歌手、ミュージシャン、ショールームエンターテイナー、俳優、レコーディングアーティストでもあったダニー・カレイキニさんが1月6日ヌアヌのセントフランシス・ホスピスで眠るように息を引き取りました。85歳でした。

カレイキニさんは、ホノルルを見下ろす家で生まれ育ち、ルーズベルト高校を卒業したカレイキニさんは、ハワイ大学マノア校からエンターテイナーとしてのキャリアをスタートさせました。当時のカハラ・ヒルトンのハラテラスで27年間活躍しました。カレイキニさんは同じ会場で最も長く活動したショールームスターです。日本からの観光客が爆発的に増えることを予見した最初の大スターで、日本語が話せるようになり、他の言語の基本的なあいさつも覚えました。ハワイのコメディアン、アンディ・ブマタイさんは、「もし宇宙人がカハラヒルトンに着陸したら、カレイキニさんは彼らの言葉で挨拶するでしょう」と言った程です。

カレイキニさんのもつ卓越したオープンハートな精神により、1988年、当時のジョン・ワイへー州知事がカレイキニさんをハワイの「アロハ大使」として任命しました。ワイへー元知事は「彼がそれに値する人物だったからです」と話し、「1970年代に"アロハ “とは何か、アロハがハワイの一部であることを明らかにするために取り組みが行われたことを覚えていらっしゃいますか。アロハには重要な意味があります。ダニーは日常的にそれを体現(表現)していたのです」と振り返りました。

カレイキニさんは、マルチタレントのエンターテイナーであると同時に、カハラヒルトンでのショーの運営、演出、プロデュースのすべてをこなす、敏腕ビジネスマンでもありました。1991年には、ハワイのショールーム・エンターテイナーの中で初めて、記念品として ビデオを作成し、「ダニー・カレイキニのハワイ」というVHSを発売しました。

1994年、フランク・ファシー氏のパートナーとしてベスト(Best Party)党から副知事選に出馬したこともあります。

1995年、ハワイ・アカデミー・オブ・レコーディング・アートの生涯功労賞Lifetime Achievement Awardを受賞。

1998年、日本のワタベウェディングと共同で、カハルウのカホウナ養魚池に「アロハ・ケ・アクア・チャペル」をオープン。

近年は、養魚池の整備や、孫でミュージシャン、レコーディング・アーティストのニコラス・カレイキニ氏の指導に力を注いでいました。

カレイキニ氏の訃報は瞬く間に広がり、島中の人々から追悼の言葉が寄せられました。

1980年代にカハラヒルトンで一緒に仕事をした1975年のミス・ハワイに選ばれた歌手のキャシー・フォイさんは、カレイキニ氏のことを「完璧なパフォーマー」だったと言い、「彼はたとえ体調が悪いときでも、部屋中を明るくしてくれました」と振り返りました。

ブライアン・シャッツ上院議員は、「私はハワイとともに、島を越え、海を越えた伝説の人物の死を追悼します」と述べました。「ダニーは、並外れた才能とカリスマ性を持ち、陽気で大胆なパフォーマーで、どんなステージにも活気を与え、人の心を温かくしてくれる人でした。彼は、すべての人を特別な存在にしてくれる人でした。彼はアロハ・スピリットの生きた体現者であり、皆この訃報に深い悲しみを覚えています。彼の声、彼の人としての温かさ、そして彼との友情を恋しく思います。安らかに眠って下さい。アロハ」という弔辞を寄せました。

ホノルル市のリック・ブランジアーディ市長は、「ダニーは、私がハワイ大学でフットボールのコーチをしていた1970年代初頭から特別な友人でした。それはダニーが多くの人にとって特別な友人だったということなのです。彼は、彼を知るすべての人々から愛され、尊敬されていました。私にとって、彼はハワイの特別なもの、すべての要素を体現しているような存在でした。ハワイにとっても世界にとっても、彼は本当に宝物でした」と話しました。

カレイキニ氏の遺族は、孫のほか、妻のジャクリーン・ウォン・カレイキニ氏、娘のレオン・ケイキラニ・カレイキニ氏、妹のスーザン(メル)・ハマダ氏です。(息子のダンジャック・カレイキニさんは1992年に亡くなっています)